ゲーム . その他 . 漫画 . 雑学 . 音楽漫画の起源と言われるものとして現代に残っているものとして
江戸時代の18世紀初頭までには、肉筆の戯画が商品として流通するようになった。
幕末の開国期、のちの「漫画」に連なる表現および技法には、2つの流れがあった。
江戸幕府が倒れ、時局に関する表現がある程度自由になった明治時代初期
1896年、田口米作は『團團珍聞』に『江の島鎌倉長短旅行』の連載を開始した。
明治最後の年の1912年、北澤楽天が経営母体の変わった『東京パック』を去り
1915年、岡本一平ら数十人の漫画家は、日本初の漫画家団体東京漫画会(のちの日本漫画会)を設立した。
昭和最初期には、経営母体が変わりながら断続的に廃刊と再創刊を繰り返していた『東京パック』が
戦前の漫画家で、戦後も専業漫画家を続けた例は
1950年代に入り、『冒険活劇文庫』(明々社)、『おもしろブック』(集英社)などの
1950年代後半、物価上昇の影響などで赤本漫画が終焉を迎え、需要はより安価な貸本漫画へ移るようになる。
この時代以降、日本の漫画は、読者層ないし技法別に分類した場合
アマチュアの市場では、同人誌グループがますます増加して
1979年には、松本零士『銀河鉄道999』のアニメーション映画版の劇場公開に合わせ、国鉄によりイベント列車が運行された。
この時代には子供の人口が増え、1960年代後半生まれが中高生になり
そんな中、サンデーの『うる星やつら』と『タッチ』がテレビアニメ化により大ヒットを記録するなど
漫画の市場規模は3260億円(1985年)から4500億円(1988年)に達し
日本の漫画の総売上は1995年にピークに達した。
漫画原稿のデジタル化が進み、手描きでは難しい画像処理が手軽になった。
『週刊少年ジャンプ』はこの時期、部数の減少が続いたが
2000年代後半になると、『キングダム』『宇宙兄弟』『東京喰種トーキョーグール』など
2010年代にはスマートフォンの普及により、スマートフォンでの閲覧を意識し
2020年には『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』など呪術的な漢字を使い
私自身も漫画で育ってきたので、この歴史を知って非常に勉強になりました。
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漫画の歴史。わかりやすくいっぺんにまとめて知ってしまおう!
On 2024年4月25日 by luckylife漫画の起源と言われるものとして現代に残っているものとして
滑稽さ、風刺性、物語性などを持った絵画作品のことを「漫画」と
呼んだのは少なくとも明治時代中後期以降であった。
日本最古であると指摘されているのは平安時代の絵巻物・『鳥獣人物戯画(鳥獣戯画)』である。
引用元 : wikipedia
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目次
Toggle江戸時代の漫画の歴史
引用元 : ストリートミュージアム
開国前
江戸時代の18世紀初頭までには、肉筆の戯画が商品として流通するようになった。
やがて、町人文化の興隆と木版による印刷技術の発達にともない
挿絵が添えられた娯楽読み物の書籍・黄表紙や
1枚もののイラストレーション商品・浮世絵が19世紀までに成立した。
浮世絵師として知られる葛飾北斎のスケッチ集・『北斎漫画』は「漫画」という語を含む
作品集としてことに著名である(ただし、ここでの「漫画」は「漫然と描かれた絵」を意味して用いられており
現代的な意味とは異なる)。
同作では鼻息を表す線など、現代における「漫符」に相当する技法がみられる。
なお、『北斎漫画』は葛飾派の「絵手本」、すなわち一種の教本として発表されたもので
一般読者の娯楽を第一としたものではなかった。
幕末
幕末の開国期、のちの「漫画」に連なる表現および技法には、2つの流れがあった。
ひとつは従来の浮世絵の系統、もうひとつは西洋由来のペン画の系統である。
幕末期の前者には、歌川国芳、渓斎英泉、初代歌川広重(安藤広重)らがいる。
後者は、写真の撮影や印刷技術が未発達であった時代に
報道すべき出来事を過不足なく伝えるためのイラストレーション(報道画)として制作されるもので
イギリスの新聞『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』の特派挿絵記者として
1857年に来日したチャールズ・ワーグマンらによって日本に伝わったものである。
ペン画のような細く細密な原画の印刷は、当時の新技術・亜鉛凸版によって実現したものであった。
1862年、ワーグマンは、日本初の外字雑誌にして漫画雑誌である『ジャパン・パンチ』を創刊する。
これ以降、滑稽さ、風刺性、寓意を持ったイラストレーション作品を「ポンチ絵」「西洋ポンチ」
または単に「ポンチ」と呼ぶようになる(イギリスの風刺漫画雑誌『パンチ』が直接の語源だとする説もある)。
明治時代から第二次世界大戦まで
明治時代前期
江戸幕府が倒れ、時局に関する表現がある程度自由になった明治時代初期
『ジャパン・パンチ』を参考に、日本語による絵入り新聞が続々と創刊される。
1874年に河鍋暁斎と仮名垣魯文が雑誌『絵新聞日本地』を創刊したのを皮切りに
1875年には梅亭金鵞(橋爪錦造)が『寄笑新聞』を、1877年には野村文夫が『團團珍聞(まるまるちんぶん)』を創刊した。
とりわけ『團團珍聞』では、自由民権運動を背景とした反政府的な民意を背景に
痛烈な政治風刺のポンチ絵が描かれ、たびたび発行停止処分が下された。
1883年、陸軍士官学校の記録法教師としてジョルジュ・ビゴーが来日する。
ビゴーは『團團珍聞』や錦絵新聞の『郵便報知新聞』への寄稿のほか、個人誌『トバエ』において
激しい政府批判や、叙情的な世相描写を行った。
『トバエ』は日本語のキャプションが添えられていたため
多くの日本人ポンチ絵師の目に触れ、大きな影響を与えることになる。
この間、印刷技術の近代化にともない、ポンチ絵や錦絵の掲載媒体は
浮世絵や瓦版以来の1枚刷りから、新聞・雑誌へと移行していく。
明治時代後期
1896年、田口米作は『團團珍聞』に『江の島鎌倉長短旅行』の連載を開始した。
これは日本で最初の連載漫画とされている。
「長」と「短」と名付けられた2人の主人公による観光旅行を描いたこの作品は
特定のキャラクターによる一貫したストーリーを描いたものとして最初の例でもあった。
週刊英字新聞で活躍していたオーストラリア出身の漫画家フランク・A・ナンキベル(英語版)に
師事した北澤楽天(北沢楽天)は、師を紹介した福澤諭吉の招きにより
1899年に新聞社・時事新報に入社し、同紙で『田吾作と杢兵衛』『灰殻木戸郎』などを連載して、人気を得た。
両作は同時代のアメリカ合衆国の新聞漫画形式であったコミック・ストリップにヒントを得た
複数のコマの連続からなる作品で、日本初の試みとされている。
また楽天は、従来のポンチ絵と自身の作品を区別するため
このコミック・ストリップの訳語として「漫画」という語を用いるよう時事新報に進言した人物であり
ここで現代的な意味での「漫画」の語用が成立した。
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明治時代後期
明治最後の年の1912年、北澤楽天が経営母体の変わった『東京パック』を去り
新たに『楽天パック』を創刊したほか、舞台美術家だった岡本一平が『朝日新聞』の専属となる。
岡本は上記「コマ画」風の滑稽画に文を添えた「漫画漫文」スタイルで時代の寵児となる。
それまではもっぱら風刺の手段と見なされていた漫画が
大衆娯楽として認識されていく過程において、岡本の活動は大きな役割を果たした。
大正・昭和時代
大正時代
1915年、岡本一平ら数十人の漫画家は、日本初の漫画家団体東京漫画会(のちの日本漫画会)を設立した。
翌年に創刊された同会の同人誌『トバエ』(上記ビゴーの雑誌とは無関係)で岡本は
ドイツの漫画誌『ジンプリチシムス』などに触発され、ペンによる簡素な描線やデフォルメされた造形といった
実験的な作風に取り組んだ。
また、岡本が1917年から少年雑誌『良友』に連載開始した『珍助絵物語』は連載少年漫画の草分けとされる。
時事新報は1921年、同紙の別刷り日曜版付録として『時事新報日曜付録・時事漫画』を創刊した。
北澤楽天が1928年から『時事漫画』で連載した『とんだはね子』は
日本で最初の少女を主人公とした連載漫画であり、少女漫画の先駆的作品とみなされている。
『時事漫画』の成功に触発されたほかの新聞・雑誌も、娯楽的な連載漫画作品を多く掲載するようになる。
とりわけ児童向け漫画や、家庭生活を題材にした「家庭漫画」のジャンルとしての定着と、技法の進化がみられた。
1923年に『アサヒグラフ』で連載開始された織田小星作・樺島勝一画の『正チャンの冒険』や
1924年に『報知新聞』で連載開始された麻生豊の『ノンキナトウサン』は
いずれも場面が複数のコマで区切られ、人物の台詞はフキダシで囲まれており
現代の漫画に通じる標準的なスタイルとなっている。
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1950年頃まで
昭和最初期には、経営母体が変わりながら断続的に廃刊と再創刊を繰り返していた『東京パック』が
「エログロナンセンス」の世相に沿うように
田中比左良、小野佐世男らによるエロティックな要素の強い世相風刺画を掲載し人気を盛り返した。
新漫画派集団の作家たちの作風は楽天や岡本らが確立した旧来の漫画技法と異なり
欧米のナンセンス漫画の影響を受け、毛筆ではなくペンによって描画する
キャプションや台詞などの文字をあまり添えない、などを特徴としていた。
これら日本独自のナンセンス漫画は、たちまちに人気を獲得し
のちに第二次世界大戦終結直後の漫画界の中核を成す存在となった。
1930年代には新聞・雑誌が
(主要対象が大人向けであるか否かに関わらず)幼年漫画(児童漫画)の欄を設け、全盛となった。
雑誌では田河水泡『のらくろ二等卒』に始まる『のらくろ』シリーズ(少年倶楽部)
阪本牙城『タンクタンクロー』(幼年倶楽部)など、新聞では宮尾しげを『漫画太郎』『団子串助漫遊記』(東京毎夕新聞)
長崎抜天『ソコヌケドンチャン』(時事漫画→時事新報漫画と読物)
宍戸左行『スピード太郎』(読売サンデー漫画→よみうり少年新聞)などが単行本化され、ベストセラーとなった。
戦時中は多くの漫画家が軍の意向で戦意高揚的な連載作品や
プロパガンダの製作に従事させられたが、1938年には太田耕士、小野澤亘(さわ・わたる)
久米宏一らが反戦漫画同人誌『カリカレ』を立ち上げるなど、抵抗の動きも見られた。
太田の検挙による廃刊後、小野沢と久米は北京に渡って『北京漫画』の立ち上げに関わり、当地の漫画家に影響を与えている。
連合国軍占領下の日本
戦前の漫画家で、戦後も専業漫画家を続けた例は
新漫画派集団の後身・漫画集団の漫画家の何人かや
児童漫画系の杉浦茂、倉金章介、長谷川町子など、非常に少ない。
戦後、特に米軍占領時代の漫画復興のうち、まず児童向け漫画は、戦災でほとんどのコンテンツ資産を失いながらも
戦後に急速に再生した紙芝居による所が大きい。
紙芝居屋は、1950年代には全国に5万人を数えたが、これ以降は徐々に減少していく。
出版媒体での児童漫画復興の嚆矢は1946年創刊の『子供マンガ新聞』であった。
第二次世界大戦後
1950年代前半
1950年代に入り、『冒険活劇文庫』(明々社)、『おもしろブック』(集英社)などの
児童向けの月刊誌が発刊され、紙芝居の作家たちが手掛けた、紙芝居シリーズを元にした
イラストレーションと文章による絵物語がブームを呼ぶ。
手塚治虫は、この赤本漫画において、まとまったストーリーを展開する方法を確立し
描き下ろし長編作品『新宝島』(1947年)で赤本漫画ブームを巻き起こした。
その強い影響を受けた中から多くの人気漫画家が輩出したこともあり
手塚以降の日本漫画は第二次世界大戦までとは人材の系譜的に断絶しているため
手塚が現代漫画の始祖的扱いを受けることが多くある。
一方、技法としては彼に先行するいくつかの革新的作品の存在も指摘されている。
この時期の人気連載作品に福井英一『イガグリくん』(少年少女冒険王)
倉金章介『あんみつ姫』(少女)、武内つなよし『赤胴鈴之助』(少年画報)
手塚治虫『鉄腕アトム』(少年)などがある。
なお、雑誌や単行本といった漫画媒体は、あくまでも裕福な都市部の子供の文化にとどまり
その他の多くの子供にとっては高価であった。
1950年代後半
1950年代後半、物価上昇の影響などで赤本漫画が終焉を迎え、需要はより安価な貸本漫画へ移るようになる。
子供の需要が増した貸本屋では、1953年頃から貸本漫画が出始め、市場が成長し
ここへいたり漫画は、紙芝居と並ぶ子供文化の中心となる。
漫画家たちは、手作りの一点ものを貸本屋に売って名を売った。
この時期の貸本漫画の作家は、戦前からの作家、赤本や紙芝居からの転身
貸本からデビューした者(水木しげるや白土三平)など様々である。
また他誌に先駆け、少年雑誌『漫画少年』主催の手塚治虫審査による一般向けの作品公募が開始され
全国の漫画家志望の少年少女がこぞって投稿した。
学生による原稿回覧誌として石森章太郎らによる『墨汁一滴』が知られるほか
東京の大学では1954年の明治大学漫画研究会および早稲田大学漫画研究会の創部をきっかけに
翌年に「大学漫画研究会連盟」が発足した。
当時の大雑誌が既存大家の絵物語に占められている中
東京都のアパート・トキワ荘に集まった『漫画少年』の投稿出身者を中心とする若手漫画家たちが
掲載誌を新発の少女漫画誌に求め、情緒性豊かで複雑なストーリー漫画の技術を鍛えていった。
子供向けの週刊誌として、1959年に、『少年マガジン』(講談社)、『少年サンデー』(小学館)などの
週刊漫画雑誌が登場するが、創刊当初は、子供の小遣いで買える価格ではなく、経営的に安定しなかった。
新聞漫画は、長谷川町子『サザエさん』などの家庭を舞台にした4コマ漫画および
論説漫画(エディトリアル・カートゥーン)が主流となっていく。
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高度経済成長期からバブル崩壊まで
この時代以降、日本の漫画は、読者層ないし技法別に分類した場合
一部の実験的な漫画を除けば、少年漫画、少女漫画、劇画、大人漫画の4つのジャンルにはっきりと収束していく。
1962年、講談社が週刊『少年マガジン』と月刊『なかよし』から
漫画雑誌の週刊『少女フレンド』( – 1996年)を発刊、翌1963年には
月刊『りぼん』を出していた集英社が、これを総合雑誌週刊『マーガレット』で追う。
これによって、少女誌も週刊時代に突入する。戦後における少年漫画の先頭を切っていた手塚治虫は
テレビ放送開始当初からテレビアニメ進出を模索し、1963年、海外輸出を前提としたテレビアニメ作品の制作を開始。
これ以降、従来の実写テレビドラマ化・ラジオドラマ化に加え
雑誌の原作漫画とテレビアニメ放送との連携(メディアミックス)が増える。
また、梶原一騎・川崎のぼる『巨人の星』などの「スポ根(=スポーツ根性)もの」
と呼ばれる過激な演出のスポーツ漫画が1970年代にかけてブームとなった。
1968年には、集英社が『少年ジャンプ』、秋田書店が『少年チャンピオン』を創刊した。
『ジャンプ』は、後発ゆえに人気作家を確保出来ない逆境を逆手に取り
上記『マーガレット』同様、若手の積極的な登用と、徹底した読者アンケートによる生き残り方式で部数を伸ばした。
日本初の青年漫画誌『月刊漫画ガロ』は、1964年に創刊された。
『ガロ』はスケールの大きさから連載する場所がなかった
白土三平の劇画『カムイ伝』を連載するために創刊された雑誌で、同時に、活躍の場を失いつつあった
貸本漫画家への発表の場の提供と、新人発掘を行った。
『ガロ』掲載作品の表現に大きな衝撃を受けた手塚治虫は、1967年に後発雑誌『COM』を創刊した。
『ガロ』『COM』は商業性よりも作品の質を重視し、描き手のオリジナリティを遵守し
新人発掘の場として独創的な作品を積極的に掲載した。
編集者の干渉は既存雑誌より比較的少なく、作家は自由に作品を発表できた。
これは、漫画という表現を選択することのなかったアーティストたちに門戸を開放する結果となり
ユニークな新人が続々と輩出されるようになった。
特に、つげ義春が1968年に『ガロ』に発表した『ねじ式』は、奇妙な画風と常軌を逸した不条理な展開から
漫画が初めて表現の領域を超越した斬新な作品と評され
海外のアンダーグラウンド・コミックやオルタナティヴ・コミックの作家を含む
後世の漫画家に絶大な影響を与えることになった。
また、『カムイ伝』をはじめとする既存体制への反発といった同時代に見られなかった作品テーマが
全共闘時代の大学生のバイブルとして強く支持されて一世を風靡し
「漫画は子供が読むもの」という既成概念を覆して漫画文化の新時代を築いた。
この間の1964年には日本初の漫画家の職能団体として日本漫画家協会が設立された。
1970年代
アマチュアの市場では、同人誌グループがますます増加して
一同に介して交流する場の需要が高まり、「日本漫画大会」(1972年)
「コミックマーケット」(コミケ、1975年)といった大規模な同人誌即売会の開催につながっていった。
2007年夏には55万人が参加する世界の漫画界最大のイベントに成長した。
ここから高橋留美子(コミケ初期)らがプロとなった。
「コミケ」創設年の1975年は、第一次オイルショックの影響で景気は低迷し、新規採用を中止する大企業が相次いだ。
漫画業界は単行本・雑誌ともに好調で、少年週刊誌は発行部数2億9133万部と
3億部を目前にするなど、漫画産業は右肩上がりの成長を続けていた。
1977年、『週刊少年ジャンプ』と『週刊少年チャンピオン』は発行部数200万部を記録した。
チャンピオンの躍進により、『マガジン』『サンデー』『ジャンプ』『チャンピオン』の四誌は、
「四大週刊少年誌」と呼ばれるようになった。
1979年には、青年向け漫画雑誌の『週刊ヤングジャンプ』が創刊され、創刊号がたちまち売り切れたことが話題となった。
漫画を雑誌の連載で読まず単行本まで待つ読者層の登場や
国民生活が豊かになったことで、子供の小遣いで気軽に漫画単行本が買えるようになったことも、この図式を加速させた。
1979年には、松本零士『銀河鉄道999』のアニメーション映画版の劇場公開に合わせ、国鉄によりイベント列車が運行された。
切符の競争率が70-80倍にも及び、漫画の影響力の大きさを知らしめることになった。
以降、少年・少女漫画においては、テレビアニメ化・アニメーション映画化など
メディアの垣根を越えた複合的な作品造りを踏まえたメディアミックス・タイアップ戦略が大規模かつ本格的になり
漫画家の活躍の場が広がる一方で、メディア間の関係がより複雑なものになっていった。
この頃から書店に「漫画コーナー」が設けられるようになった。
漫画の消費速度が上がり、次々に読み捨てられていくようになっていった。
こうした風潮を受け、貸本店の経営者だった内記稔夫が
1978年、東京に漫画の収集・保存を目的とする「現代マンガ図書館」(現・明治大学現代マンガ図書館)を創設した。
1980年代前半
この時代には子供の人口が増え、1960年代後半生まれが中高生になり
1970年代前半生まれが小学生になった。
また、1974年にセブン-イレブンの1号店ができて以来着実に店舗数を増やしていた
コンビニエンスストアは1981年に全国総店舗数が15000軒を超え
書店と並ぶ漫画雑誌の供給源として重要な存在になった。
1980年に『週刊少年ジャンプ』が300万部を突破した一方で
翌年には少年週刊誌の発行部数は前年比-8.6%、少女週刊誌も-7.1%と、全体的な部数を落とした。
特に『ブラック・ジャック』『ドカベン』『がきデカ』が
連載を終えた『週刊少年チャンピオン』は売り上げを大きく落とし、部数減に拍車がかかった。
そんな中、サンデーの『うる星やつら』と『タッチ』がテレビアニメ化により大ヒットを記録するなど
あだち充や高橋留美子らのラブコメディ(ラブコメ)漫画が隆盛を極め、最盛期を迎える。
一方で、これらの少年漫画の一ジャンルを長年築いてきた「スポ根もの」は下火となった。
1984年には漫画雑誌の総発行部数が10億部、単行本の販売金額が1000億円の大台を突破した。
特に、『キャプテン翼』『キン肉マン』『北斗の拳』など多数の人気作に恵まれた『週刊少年ジャンプ』は
年末最終号が400万部を超えた。
1980年代後半
漫画の市場規模は3260億円(1985年)から4500億円(1988年)に達し
特にレディースコミック雑誌が急成長を遂げた。少女漫画の月刊誌『りぼん』は200万部雑誌となり
『週刊少年ジャンプ』は平常号が400万部、実売率97パーセントという数字を叩き出した。
寡占の激しい少年週刊誌は、人気作品の続発と、それらのテレビアニメ化が成功した
『週刊少年ジャンプ』の一人勝ちとなっていた。
特に『週刊少年ジャンプ』は1987年には430万部、1988年には500万部という驚異的な数字に達した。
石ノ森章太郎『マンガ日本経済入門』(日本経済新聞社、1986年)は
200万部を超えるベストセラーとなり、漫画の持つ伝達性が娯楽や初等学習の分野だけにとどまらないことを広く印象づけた。
1989年には青年誌の売上が前年比+24.4パーセントとなり
「大人漫画」に代わり、児童漫画でつちかわれたストーリー漫画の形式が、大人向け漫画の主流になったことを示した。
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1990年代
引用元 : Infoseek
日本の漫画の総売上は1995年にピークに達した。
1994年末に653万部を達成した『週刊少年ジャンプ』は
人気作の相次ぐ終了などで発行部数が減少に転じ、1997年に『週刊少年マガジン』に抜かれて2位に転落した。
この頃、漫画雑誌のメディアミックスはより強固になり
人気漫画の多くがテレビアニメ化・テレビドラマ化・映画化されるようになったほか
コンピュータゲームやライトノベルとの関連も強くなった。
しかし1990年代後半以降は、少子化や、漫画喫茶・レンタルコミックの普及などの影響で
少年誌・少女誌の発行部数がともに落ち込み、特に少女漫画雑誌の部数は大きく減少した。
漫画に限らず出版業界全体が出版不況の状況下にあり、廃刊する漫画雑誌が続出した。
2000年代
引用元 : ViVi
漫画原稿のデジタル化が進み、手描きでは難しい画像処理が手軽になった。
ComicStudioのような漫画専用ソフトも登場した。
電子書籍やウェブコミックという新形式も徐々に登場し、描き手の幅が広がった。
新旧問わずインターネット・ミーム化により有名になる作品が出るなど
商業メディア側の仕掛けでないブームが生まれる状況も発生した。
引用元 : fplus.ne.jp
『週刊少年ジャンプ』はこの時期、部数の減少が続いたが
『ONE PIECE』『NARUTO -ナルト-』『HUNTER×HUNTER』『テニスの王子様』『BLEACH』などのヒット作によって
300万部以上を維持し、2002年に再び漫画誌の発行部数1位となった。
『ONE PIECE』単行本第67巻(2012年)が日本出版史上最高初版発行部数の405万部を記録する一方で
ジャンプ本誌の発行部数は2017年に200万部を割った。
2000年代後半になると、『キングダム』『宇宙兄弟』『東京喰種トーキョーグール』など
青年漫画雑誌からのストーリー漫画のヒット作が多く生まれた。
月刊の少年漫画誌からは『鋼の錬金術師』『青の祓魔師』『進撃の巨人』がヒットした。
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2010年代
2010年代にはスマートフォンの普及により、スマートフォンでの閲覧を意識し
ウェブトゥーンのようにコマを縦に積み重ねたり縦長のコマで構成される「縦スクロール漫画」など新たな試みもされた。
1970年代以降、漫画編集者にとっての未知の新人の発掘場所は漫画雑誌と同人誌であったが
ウェブ漫画台頭でインターネットも新たな発掘場所となった。
一方で、インターネットがさまざまなコンテンツの閲覧を容易かつローコストにしたことや
5Gなどの大容量コンテンツがより手軽に送受信できるインフラが普及すれば
雑誌や単行本単位で販売される漫画は、広告閲覧による無料コンテンツと比較し
「高級なコンテンツ」となり、大衆文化から淘汰されるのではないか、という悲観的な予測も出た。
特に「縦スクロール漫画」は従来の漫画と比較し、読者による考察や感想の共有などが少なく
「スナック感覚」で消費されているという指摘がある。
2013年には「二次創作」に関するフェアユース許容ルールとして
作者側による「同人マーク」提示が提唱され、利用を広める運動が開始された。
2020年代
引用元 : Shonen Jump
2020年には『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』など呪術的な漢字を使い
非合理的な世界を描いた作品がヒットしているなど、読者層の思想が変化しているという指摘もある。
日本では漫画家1人か作画と脚本の2人で制作し、必要であればアシスタントが補助するという
個人制作に近い形態が主流で、作家個人の才能に依存するという意識が強く
商業作品であっても供給される作品の質や量は不安定とされた。
これに対し安定して作品を量産するため、アニメーション制作やアメリカン・コミックスのように
プロット、シナリオ、ネーム、下書き、背景、彩色などを各分野のエキスパートに分業させる
スタジオ形式も模索されている。
日本でも完全分業制はあったが、大ヒット作を生み出し資金に余裕のある一部の作家(さいとう・たかを等)が
自身を補助する目的で設立する程度であった。
電子書籍の浸透により、ヒット作や人気作家は紙と電子版の両方
人気の少ない漫画は電子書籍のみという形態が一般化した。
デジタル化された画像データを配布することになるため
裁断やスキャンなど手間がかかる作業が必要な紙媒体よりコピーのハードルが下がり
違法ダウンロードの被害を大きく受けることとなった。
漫画に親しんだ世代が大人となり学校教育現場でも漫画に肯定的になっているが
SNSや動画配信サービスの浸透により漫画を読まない子供も増えているため
出版文化産業振興財団では朝の読書運動や読書感想文コンクールなどに
漫画を選定してもらう事業を通し、漫画作家となる下地や将来の顧客を作る活動を行っている。
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まとめ
引用元 : ドラゴンボールオフィシャルサイト
私自身も漫画で育ってきたので、この歴史を知って非常に勉強になりました。
実際にこの歴史無くして漫画の世界はないし、手塚治虫氏が漫画の礎と言われる理由もわかりました。
それも江戸時代の頃から絵に対する認識が高かったことが何より素晴らしいし
今後の漫画界における需要もしかり、発展を遂げていく為には欠かせないもの。
日本は漫画大国と言われ世界的人気も博してます。
近年では有名なレジェンド作家さんが逝去されたりと悲しいニュースもありますが
どうか、青春時代に欠かせなかった漫画が未来の子供達に語り継ぐよう願いします。
そして、著作権に基づき作者の意向を無視するような金儲けや置かれた組織内で
蔑ろにしないような尊重される世界をしっかり築いてほしいと思います。
新しい漫画がさらに生まれることを願い、今後の発展を!!
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